フジワラブログ

短歌とか、思ったことを書き残します

生とシ タナトフォビアという病

胃もたれするほど気取った文章です。恥ずかしい。もっと練習します。とりあえずよんでね。

 

 

死というものはあなたに恐怖を与えるものであり続ける。死を恐怖するからあなたは大切な命を持ったままこの世界に生きることができるし、命を次の世代に繋いでゆくことができる。死を恐れない者はいない。命を繋ぐ者としてあなたは死を恐れている。

 


私も死を恐れる。死は私たちの終わりそのものとして立ち現れようとしている。死が私の終わりであるなら私の死を体感することはあり得ないのは有名な話である。しかし、私たちは、そこらじゅうに潜んでいるように思われる死の痛みのようなものを恐れて、時に逃げ隠れしながら、生きてゆく。

 


前にも話したが、私は時々死後の世界への想像を膨らませ、死の存在しない体感に身体を代入し、震えながら涙を流す。生きていたい。死を意識する時、生を意識する。麦畑に1人佇む自分が死後の世界の虚像として私の脳内に立ち現れる。そこから逃れるように、死んだように、眠りにつく。

 


死への恐怖を忘れられるものは、現世に根を張って生きることができる。死への恐怖は死の可能性への恐怖だから、私たちを凍結させる。しかし滞ることなく社会が回り生活を営めている私たちがいる。当たり前である。日中の仕事に死への恐怖をもって取り組む者はいない。死と隣り合わせの仕事をしている人でさえ、(というよりなおさら)忘れている。その時私たちはいくらか、生きていることも忘れている。

 


仕事だけではない。余暇や思い出、私たちにとって楽しいことも死への恐怖を忘れさせる。楽しさは脳に焼き付き離れない。この楽しさを永遠のものとしたいと誰もが思う。しかし真に生を謳歌していない。私たちは常に儚い存在としてある。

 


シャボン玉 青春を抒情する時は 宙に浮き生きることを忘れる

(自作)

 


短歌に自分の生を閉じ込める時、私はいくらか生きることを忘れている。31音に自分のありたい姿、詩性的理想像をこさえてゆく。完成した余りにも短すぎるポエムが、誰かに伝えられてゆく。少し安心しながら、不安を覚える。自分がこさえた言葉は悠久の時を駆け抜けるにはあまりにも貧弱なのである。

 


短歌に閉じ込められている自分の生を見るのは、親が自分そっくりの子供を可愛がる目に似ている。命を繋いでゆく親子という儀式。親は子に健やかな成長に祈りを捧げつつ、死に向かって生きてゆく。

 

 

 


短歌の作者も人間だ。死が待ち受けている。

 

 

 


言葉の永遠たる性質に賭けて、自分の生を注ぎ込み作られた短歌に、親子的な儀式を持ちかける。自分の分身のような存在に祈りを捧げる。健やかにあってほしいと願いながら、短歌そのものはあまりに貧弱すぎる。

 


自分の短歌が消えゆくのを恐れる時、上達への志向が強まるのを感じる。それは、歌に単に強さを求めるのではなく、親子愛である。もっと強く優しく穏やかに伸びやかに鋭くあってほしい。自分の死と同じぐらい、親は子の死を恐れるのだ。

 


こういう気持ちを誰しもが当たり前に持っているのだと思う。それは作り手という立場になると現れてくる病だ。病と定義されて然るべきほどに、煩わしさがあると思う。普通に生活していくこともできる中で、作り手はこういう病を引き受けて歩んでゆく。死を回避するための病。当たり前のことに当たり前のように行き着いただけの自分は、この病を引き受けられる?