フジワラブログ

短歌とか、思ったことを書き残します

最近考えてることについて②〜届ける〜

 

 

しょうもないことをツラツラ書きました。でも読んでほしいです。

 

 

 

 

いまこの文章を書いているが、誰も読む人がいなくて終わったら、この文章がこのブログに残ることにはなんの意味もなくなり、僕の足跡が一つの風紋になってしまうということに、一番の恐怖を覚えてしまう。

 

 

 

 

自分の作ったものを、それを欲している他人に、あるいは結果的にそれを必要としていた他人に、その他人が生きてるうちに、届ける必要がある。そうやって届けようとする意志とか、自分なら届けることができるという自信みたいなものが根拠なく溢れる。自分にとって自分の死には意味がないことを引き受けつつあるともいえる。他人の死は、刻々と迫って来ている。

 

 


死の恐怖を克服する術として短歌などを残す、という発想をしてきたが、残すということ自体にはあまり意味がない気が最近はしてる。今のモチベーションは専ら届けたいということ。

 

 

 


逆張りと冷笑ってコアの部分では同じ。自分自身に何を届けたいのかを、僕は常に問うてるつもり。

 

 

 


実感が伴っている言葉を発したとき、どうしても伝わってほしいというエゴが発生する。短歌は31音の歌を五感相互の共感覚の中で生産・消費する営みだと捉えている。実感があるから強度のある歌が作れるし、強度のある歌だと思って僕は提示する。本当に伝わってほしい。これは本当にエゴでしかない。他人の死は、刻々と迫って来ている。

 

 

 


他者に対する共感を届けようとして、失敗するのは悲しい。不器用な僕にはそういうことがいつもある。僕の表層にある何かがノイズになっている。こんなにも素直でありたいのに。エゴ。ノイズ。素直。

 

 


僕の祖父は、僕が生まれた直後に、剣道七段を取った。小手ありの一本で。小手。小手は面とか胴にはないかっこよさがある。刀を持っている小手。小手は的が小さく、達人的な間合いの管理によって綺麗な一本が決まる。その一本の集中、気合、声。僕は91歳になった祖父に、小手で昇段を決めたときのことの話は本当にかっこいいと伝えた。そのとき僕は泣きそうだった。ほんとうに久々に素直に喋れた気がする。

 

 

 


感動を覚えることは僕は得意だからこそ、それはつまり他人から届けられるための受容体みたいなものが大きいからこそ、他人に対する感動を、きちんとした言葉で、クリアなワードで、届けていく必要がある。こうやって素直な気持ちでどこまで生きていられるのか。

 

 

 


ここまで書いてみて、この他者に対するアバウトさ、僕は本当に君のことが苦手で自分が好きなのかもしれない。でももっと届けたい。届けたいんだよ。本当に。君からの感動はたくさんある。だから君も届けてほしい。これもエゴでしかないんだけど。受容する準備は出来てる。

 

 

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