フジワラブログ

短歌とか、思ったことを書き残します

最近考えていることについて① 自分など、

 

 

パッて考えついたことをダラダラと書いていました。「おかしくね?」とか「浅くね?」とか「当たり前だろ」とかあると思いますが何卒。

 

 

 

 

自分がどんな人間なのかってことは自分でずっと考えているが、ありうる答えは全部上辺だけな感じがするし、他人に聞いても自分が欲しているものは出てくることはなさそうだし、それで傷つくのは嫌だ。

 


 


短歌を詠んでいるときは、自分と向き合っている感じがする。自分の感覚を信じて表現していくことは好きだし、安心感がある。でも出てくる31音で自分の全てを換言できることはないし、LSDもやってないし、ガンギマリ・巨人でもない。でも、当たり前だけど、こういう歌がいいと思って詠んでいるホンモノの自分がいて、それを他の人に読んでもらっているときには、錯覚かもしれないけど本当の自分を見せている感じがする。

 


 


自分がしてきたこと全てに実は自分が溶け出していると思う。大学を受験して、帰ってきた点数は、明らかに自分が取った点数として納得できるものだったし、「点数で人間って測られてはいけないけど、限りなく人生だと感じた」とはそういう意味である。僕がやらかしてきたトラブルの数々も自分らしいといえば自分らしい。結果として明らかに間違ってたこともしてきた、その都度反省を繰り返した。僕は自分を肯定したい。申し訳ないとは思っています。

 


 


短歌の話になるけど、Twitterとかに上がってる歌はどこか陳腐に見えてしまう。逆に僕の短歌を上げたとしても陳腐に見られる。難しい。

 


 


言葉のウェイトってやっぱりある。僕が放つ言葉は軽くて、短歌に落とし込むとちょっと重くなる。短歌って形式の特性ではあると思うけど、僕の短歌だけ読んだ人は短歌すら軽く感じると思う。

 


 


歌人は皆すごい。短歌の言葉だけで戦っている。音楽作ってる人もすごい。歌詞と作詞者の関係性が時々わからなくなる。勉強しないといけない。短歌はもっと上手くなりたい。

 


 


自分のことが好きで、肯定したくなるのは、自分のことを肯定してくれる人が好きだからだと思う。他者としての自分との相互関係。

 


 


去年の秋頃、死ぬことが本気で怖かったことがあって、死後の世界について想像するたびに、存在しない、死の感覚に自分の体を代入しては泣いていた。そのときに読んだ変なネットのサイトで、「右脳と左脳は別の人格で、脳梁のお陰で一つの人格として統合されている」ってのをみた。自分が好きだし、自分の脳梁も愛している。

 


 


これを読んでくれている人はおそらく自分を分かってくれていたり、分かってくれようとしてくれている人だと思う。そういう人のことを僕も分かりたい。