Shiro(短歌5首)
もっとコンパクトに話せたらっていっつも思ってて 義理の光
The first takeが撮られる空間はすごい無音 すごい白さ
チャンピオン・ベルトを渡さないために 完璧な仕上がりの英数国
優等生は優等生と話をする ステルスミサイルの美について
光が瞼に当たってるのはわかるのだが ね (侍の口調で)
2023.08.26
最近考えてることについて②〜届ける〜
しょうもないことをツラツラ書きました。でも読んでほしいです。
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いまこの文章を書いているが、誰も読む人がいなくて終わったら、この文章がこのブログに残ることにはなんの意味もなくなり、僕の足跡が一つの風紋になってしまうということに、一番の恐怖を覚えてしまう。
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自分の作ったものを、それを欲している他人に、あるいは結果的にそれを必要としていた他人に、その他人が生きてるうちに、届ける必要がある。そうやって届けようとする意志とか、自分なら届けることができるという自信みたいなものが根拠なく溢れる。自分にとって自分の死には意味がないことを引き受けつつあるともいえる。他人の死は、刻々と迫って来ている。
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死の恐怖を克服する術として短歌などを残す、という発想をしてきたが、残すということ自体にはあまり意味がない気が最近はしてる。今のモチベーションは専ら届けたいということ。
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逆張りと冷笑ってコアの部分では同じ。自分自身に何を届けたいのかを、僕は常に問うてるつもり。
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実感が伴っている言葉を発したとき、どうしても伝わってほしいというエゴが発生する。短歌は31音の歌を五感相互の共感覚の中で生産・消費する営みだと捉えている。実感があるから強度のある歌が作れるし、強度のある歌だと思って僕は提示する。本当に伝わってほしい。これは本当にエゴでしかない。他人の死は、刻々と迫って来ている。
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他者に対する共感を届けようとして、失敗するのは悲しい。不器用な僕にはそういうことがいつもある。僕の表層にある何かがノイズになっている。こんなにも素直でありたいのに。エゴ。ノイズ。素直。
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僕の祖父は、僕が生まれた直後に、剣道七段を取った。小手ありの一本で。小手。小手は面とか胴にはないかっこよさがある。刀を持っている小手。小手は的が小さく、達人的な間合いの管理によって綺麗な一本が決まる。その一本の集中、気合、声。僕は91歳になった祖父に、小手で昇段を決めたときのことの話は本当にかっこいいと伝えた。そのとき僕は泣きそうだった。ほんとうに久々に素直に喋れた気がする。
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感動を覚えることは僕は得意だからこそ、それはつまり他人から届けられるための受容体みたいなものが大きいからこそ、他人に対する感動を、きちんとした言葉で、クリアなワードで、届けていく必要がある。こうやって素直な気持ちでどこまで生きていられるのか。
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ここまで書いてみて、この他者に対するアバウトさ、僕は本当に君のことが苦手で自分が好きなのかもしれない。でももっと届けたい。届けたいんだよ。本当に。君からの感動はたくさんある。だから君も届けてほしい。これもエゴでしかないんだけど。受容する準備は出来てる。
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生とシ タナトフォビアという病
胃もたれするほど気取った文章です。恥ずかしい。もっと練習します。とりあえずよんでね。
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死というものはあなたに恐怖を与えるものであり続ける。死を恐怖するからあなたは大切な命を持ったままこの世界に生きることができるし、命を次の世代に繋いでゆくことができる。死を恐れない者はいない。命を繋ぐ者としてあなたは死を恐れている。
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私も死を恐れる。死は私たちの終わりそのものとして立ち現れようとしている。死が私の終わりであるなら私の死を体感することはあり得ないのは有名な話である。しかし、私たちは、そこらじゅうに潜んでいるように思われる死の痛みのようなものを恐れて、時に逃げ隠れしながら、生きてゆく。
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前にも話したが、私は時々死後の世界への想像を膨らませ、死の存在しない体感に身体を代入し、震えながら涙を流す。生きていたい。死を意識する時、生を意識する。麦畑に1人佇む自分が死後の世界の虚像として私の脳内に立ち現れる。そこから逃れるように、死んだように、眠りにつく。
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死への恐怖を忘れられるものは、現世に根を張って生きることができる。死への恐怖は死の可能性への恐怖だから、私たちを凍結させる。しかし滞ることなく社会が回り生活を営めている私たちがいる。当たり前である。日中の仕事に死への恐怖をもって取り組む者はいない。死と隣り合わせの仕事をしている人でさえ、(というよりなおさら)忘れている。その時私たちはいくらか、生きていることも忘れている。
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仕事だけではない。余暇や思い出、私たちにとって楽しいことも死への恐怖を忘れさせる。楽しさは脳に焼き付き離れない。この楽しさを永遠のものとしたいと誰もが思う。しかし真に生を謳歌していない。私たちは常に儚い存在としてある。
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シャボン玉 青春を抒情する時は 宙に浮き生きることを忘れる
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(自作)
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短歌に自分の生を閉じ込める時、私はいくらか生きることを忘れている。31音に自分のありたい姿、詩性的理想像をこさえてゆく。完成した余りにも短すぎるポエムが、誰かに伝えられてゆく。少し安心しながら、不安を覚える。自分がこさえた言葉は悠久の時を駆け抜けるにはあまりにも貧弱なのである。
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短歌に閉じ込められている自分の生を見るのは、親が自分そっくりの子供を可愛がる目に似ている。命を繋いでゆく親子という儀式。親は子に健やかな成長に祈りを捧げつつ、死に向かって生きてゆく。
短歌の作者も人間だ。死が待ち受けている。
言葉の永遠たる性質に賭けて、自分の生を注ぎ込み作られた短歌に、親子的な儀式を持ちかける。自分の分身のような存在に祈りを捧げる。健やかにあってほしいと願いながら、短歌そのものはあまりに貧弱すぎる。
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自分の短歌が消えゆくのを恐れる時、上達への志向が強まるのを感じる。それは、歌に単に強さを求めるのではなく、親子愛である。もっと強く優しく穏やかに伸びやかに鋭くあってほしい。自分の死と同じぐらい、親は子の死を恐れるのだ。
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こういう気持ちを誰しもが当たり前に持っているのだと思う。それは作り手という立場になると現れてくる病だ。病と定義されて然るべきほどに、煩わしさがあると思う。普通に生活していくこともできる中で、作り手はこういう病を引き受けて歩んでゆく。死を回避するための病。当たり前のことに当たり前のように行き着いただけの自分は、この病を引き受けられる?
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飽和した夜(短歌8首)
飽和した夜を蒸発皿に取り結晶化したあなたを探す
帰り路で立ち止まることを勧めとく 動かない景色を呑み込むの
駅前でフリスビーする子供らの間を切り裂いてゆく男ら
この夜を飲み切ったなら僕はすぐ果てる急性夜中毒で
アルバムのAメロだけを歌うから、風呂の女神は切なく消えた
このピアノ、イヤホンジャックがあったらと思った それはサイボーグピアノ
眠る時体は夜に溶解するためにイヤホンを外している
飽和した夜に残滓となる僕をあなたの声が溶かしてくれた
(Night was saturated.)
砂(短歌5首)
砂を少々 空気にふれて光らせています親指についたままの
砂浜 君の足あとだけ泳いで脱出を試みている気がする
砂場みたいな、水を流して乾かせばまた無がやってくる手軽さを
スナイパー・ライフル頭に突き付けるにはせますぎる部屋に住んでる
砂肝、ひとりの夜ってこんなにもこんなにもかってなる味がする
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Please freeze.(短歌12首)
「砕ける」は快楽の語彙だとすれば間脳を砕かれる妄想
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血のとろみが嫌・自らの言葉で・リストカットは・できないのかよ
君はもう戻れないから、ほら君は親の番号を思い出せない
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クローバー畑と同じ感触で矛盾している人が恋しい
偶然に見つけた透明人間の隊列は青い水の青色
桜には顔がないけど、僕たちの顔を見て散るらしい ごめんね
シーサイド・ラインはいいよ あんなにも短い、人の入れ物として
本当に死ぬこと以外かすり傷と思ってる人おろしはからそう
お隣のピアノに合わせて踊っても、踊りは音漏れしないですのよ
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破滅的・マイ・クラクション・赤信号・自爆・カルテット・無理・マーキュリー
(苛まれ交差点での信号待ち)Please freeze.(嗚咽)(雨音)
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昇日の形が好きだ 凍ってる首元を砕くツルハシみたいで
最近考えていることについて① 自分など、
パッて考えついたことをダラダラと書いていました。「おかしくね?」とか「浅くね?」とか「当たり前だろ」とかあると思いますが何卒。
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自分がどんな人間なのかってことは自分でずっと考えているが、ありうる答えは全部上辺だけな感じがするし、他人に聞いても自分が欲しているものは出てくることはなさそうだし、それで傷つくのは嫌だ。
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短歌を詠んでいるときは、自分と向き合っている感じがする。自分の感覚を信じて表現していくことは好きだし、安心感がある。でも出てくる31音で自分の全てを換言できることはないし、LSDもやってないし、ガンギマリ・巨人でもない。でも、当たり前だけど、こういう歌がいいと思って詠んでいるホンモノの自分がいて、それを他の人に読んでもらっているときには、錯覚かもしれないけど本当の自分を見せている感じがする。
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自分がしてきたこと全てに実は自分が溶け出していると思う。大学を受験して、帰ってきた点数は、明らかに自分が取った点数として納得できるものだったし、「点数で人間って測られてはいけないけど、限りなく人生だと感じた」とはそういう意味である。僕がやらかしてきたトラブルの数々も自分らしいといえば自分らしい。結果として明らかに間違ってたこともしてきた、その都度反省を繰り返した。僕は自分を肯定したい。申し訳ないとは思っています。
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短歌の話になるけど、Twitterとかに上がってる歌はどこか陳腐に見えてしまう。逆に僕の短歌を上げたとしても陳腐に見られる。難しい。
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言葉のウェイトってやっぱりある。僕が放つ言葉は軽くて、短歌に落とし込むとちょっと重くなる。短歌って形式の特性ではあると思うけど、僕の短歌だけ読んだ人は短歌すら軽く感じると思う。
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歌人は皆すごい。短歌の言葉だけで戦っている。音楽作ってる人もすごい。歌詞と作詞者の関係性が時々わからなくなる。勉強しないといけない。短歌はもっと上手くなりたい。
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自分のことが好きで、肯定したくなるのは、自分のことを肯定してくれる人が好きだからだと思う。他者としての自分との相互関係。
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去年の秋頃、死ぬことが本気で怖かったことがあって、死後の世界について想像するたびに、存在しない、死の感覚に自分の体を代入しては泣いていた。そのときに読んだ変なネットのサイトで、「右脳と左脳は別の人格で、脳梁のお陰で一つの人格として統合されている」ってのをみた。自分が好きだし、自分の脳梁も愛している。
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これを読んでくれている人はおそらく自分を分かってくれていたり、分かってくれようとしてくれている人だと思う。そういう人のことを僕も分かりたい。
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